Wittgenstein and First Person Philosophy
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Up to Nowこれまでは、「ウィトゲンシュタインと自己明晰化」というテーマで後期ウィトゲンシュタインのテキストを中心に研究してきました。治療としてのウィトゲンシュタイン解釈のあり方を検討し、これまでは、しばしば哲学的な言語観は退けられるべきものと考えられていたのに対し、実は本当に退けられるべきなのはネガティブな仕方でしかある言語観を取り扱えない見方であることを示しました。ウィトゲンシュタインのテキストは、私たち読者に、哲学的な言語観を捨て去るよう強制するものではありません。それどころか、反省的な視点をとりながら言葉を取り扱う手法を、手本・雛形として見せてくれているのです。
From Now on今後は、後期ウィトゲンシュタイン研究から、ウィトゲンシュタイン哲学全体へと研究範囲を広げていきます。それに伴い、ウィトゲンシュタインから「一人称の哲学」を立ち上げることを構想しています。「一人称の哲学」とは、第一に、どんな主体があるか、第二に、ある主体がどのように働いているか、第三に、その主体は何を被っているか、最後に、主体が積極的に引き受けていることは何か、ということを明示的に行う哲学です。この「一人称の哲学」は主として、言葉の意味ということを問題にするものですが、それだけではなく、複数の立場間の関係の見通しを良くするものであり、応用力の高い思考システムだと言えます。
Individual Issues
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Common Sense and Pluralistic Certainties
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Up to Nowこれまでは、晩期ウィトゲンシュタインの『確実性について』に依拠して、三人称的な客観的確実性が、一人称的な主観的確実性の身体性を隠匿することで成り立っているのではないかということを考察してきました。言語を使うのはあくまで個人であるのに、常識を語るという仕方で社会を代表するかのような態度をとることができるのはなぜなのか。これが私の問題意識です。
From Now on今後も、三人称的な客観的確実性の正体を明るみに出すという目標を継続していきます。具体的には、しばしば非人称的な仕方で用いられがちな言葉である、「正当化」・「客観性」・「自然な」に着目し、これら非人称的な語りがもつ「確からしさ」にどのような身体性が隠されているかを検討していきます。
Individual Issues
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Wittgenstein and German Philosophical Tradition
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Up to Now私が「ウィトゲンシュタインとヘーゲル」というテーマに興味を持つようになったのは、数年前にチェコで開催されたワークショップに参加したことがきっかけです。このテーマ設定によって、これまでとは違った斬新な方法で、哲学者同士を比較することができます。私自身、このテーマについて、何をどのように論じればいいのか、今も模索中です。しかし、この分野横断的なテーマが、哲学者同士の新たなつながりの形成を容易にすることがわかってきました。今後は、哲学における共同研究を中心に、ウィトゲンシュタイン研究者として何ができるかを考えていきたいと思います。
From Now on具体的に、私が現在構想している計画は以下の二つです。第一に、前期ウィトゲンシュタインにショーペンハウアーが与えた影響を検討し、『論考』の新たな読み方を展開したいと思います。第二に、ウィトゲンシュタインが19世紀末のウィーンの知識人から受けた影響を考察し、晩期ウィトゲンシュタインを読み解くための比較対象として、「心理学」「志向性」や「ゲシュタルト」の概念を提示したいと考えています。
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The Former Overview |
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